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数奇」の真相 明治期に関西で赤松が人気のトップを占めたのには、文人の伝統とともに当時の陳列の様式や趣味家層とも深い関係がある。 座敷陳列が主で、料亭などを借リ切る形で行なわれ、あるいは寺社を借リて盛大に開かれた。 また、数奇者も大金持や政府高官・貴族・僧侶などが主体であり、彼らは直接的な金力の誇示よりも「佗」の伝統に従って誰でもが入手可能な赤松を第一としたのであろう。 現在でもそうだが、赤松は日本の山野、それも里近い野山に自生品があり、山採りが容易にできる。 そして、培養・婆姿の技術もいまだ確立していない当時としては、いわゆる癖せづくりによって神寂びた樹姿を鉢上に現わし、それと高価な書画骨董などを取り合わせ、また花物・実物などを配して教養から来る漢詩等の「みたて」を楽しんだものと思われる。 |